石垣島から所想所説、徒然なるままに

沖縄・石垣島の話題を中心に、石垣島から見えること、思うことを徒然に。好きな映画のレビューや、自分が難儀しているアトピーの話題なんかも。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー (新潮文庫) 2021

  話題のベストセラー。ブレイディみかこさんは、この本が話題になるちょっと前ぐらいに、ラジオに出演してたり、ウェブで読める記事で知っていて、The Smithsモリッシーについて語っていたり、イギリスの幼児教育について語っているのを聞きかじっていた。卑近なミクロな視点からの語りと、マクロな社会的な状況をうまく織り交ぜながら語っていて、本作が出版されるときにもラジオに出ていたはずで、その当時から読みたいな~と思っていた。ラジオは「荻上チキのセッション」とかだったと思う。

 さて、ベストセラーなだけはある。まず文章のリズムが良く、とっても読みやすい。息子と著者は英語でやりとりしているとのことなので、二人の会話文は英語を日本語に訳したモノ、なわけだろうけど、息子のセリフ部分で特に感じるのが、文体や前後の地の文からの流れによる語気、語感の豊かさだ。日本語由来の粘着性のようなものが感じられず、イギリスの今を生きる少年の「らしさ」のようなものがとても見事に表現されていると思う。
 内容については詳述はさけるが、自分が感じたことをいくつか。
1.イギリスの基礎教育(本作で言及される幼児から中学生まで)が、昨今の新自由主義の流れでひどく痛めつけられてはいるが、それでもやはり伝統的に民主主義や市民社会について強くコミットした内容だ、という点。市民社会という点でいえば、制服のリサイクル活動のシーンや、雪の日のボランティア活動のシーンで強く感じられるように、互助の精神がまだイギリスには残っているようだ。
2.中学校教育に「ドラマ(演劇)」という科目がある点。これはちょっとすごいな、と。一般的に日本人は自己表現が下手くそだ、と言われるけど、イギリス人だって、こういう教育を受けているから表現できるようになるんだろう。アメリカでもディベートは授業のとても大きな要素を占めていると聞く。「国民性」というぼやっとした空気に包まれたまま、欠点がわかっているのに、それを改善する教育を努力してやろうとしない。けっきょく意志の問題じゃないか。
3.なんといっても「多様性」。以下、作中から。
「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
「マルチカルチュラルな社会で生きることは、ときとしてクラゲがぷかぷか浮いている海を泳ぐことに似ている」
「『ハーフ』とか『ダブル』とか、半分にしたり2倍にしたりしたら、どちらにしてもみんなと違うものになってしまうでしょ。みんな同じ『1』でいいじゃない」
自分がIVF(体外受精)で生まれたことを知らされた息子が「クール。うちの家庭もオーセンティックだなと思っちゃった。いろいろあるのが当たり前だから」
4.イギリスの幼児・初等教育は日本よりずっとマシ何じゃないか、という点。 比較すると悲しくなってくるね。少人数教育を実現できず、教員すら非正規雇用にしてしまう日本の教育行政、本当になんとかすべき。自分は子どもがいないから、なかなか自分事として向き合えないが、今の日本の現状がどれほど多くの親、子どもたちを苦しめていることか。暗澹たる気分になる。
 最後に、自分が感銘を受けた場面や、ぐっと来て涙がにじみそうになったシーン。
●「A Whole New World」を息子が歌うシーン。
“ジェイソン”が「だが来年はきっと違う。別の年になる。万国の万引きたちよ、団結せよShoplifters Of The World Unite」とラップするシーン。
●試験で「empathy」とは何か、との問いに息子が「put yourself in someone's shoes」と答えた、というシーン。
●貧しいティムに、リサイクルの制服をプレゼントするシーンでの息子のセリフ。「友だちだから。君はぼくの友だちだからだよ」
 ベストセラーになるだけのことはあって、読みやすいのに読み応えがあり、読み返したくなる作品。デジタルネイティブで、グローバリゼーションと多様性が当たり前の環境で育ってきたこの「息子」たちの世代がどんな世界を作っていくんだろう。世界はいいニュースより悪いニュースで溢れているけれど、ちょっと楽しみでもある。良作です。
 

 

 

ゴールデンカムイ(第三期)

 織りなされる死生観の葛藤。それが生きるということ。

  傑作だと思う。丹念な事実の掘り起こしとフィクションとしての自由奔放な発想、素晴らしい。時おり織り交ぜる日本アニメのステレオタイプを利用したけっこうブラックなギャグも最高だ。そして土方歳三という稀有なキャラを明治の時代に復活させたのは本作中のもっとも優れたアイデアのひとつといっていい。

 エクスキューズがいくつかある。まず、原作漫画を読んでいない。だからアニメのギャグシーンとかどの程度原作に忠実なのかわからない。それにアイヌ語、ロシア語、ウィルタやニヴヒの樺太少数民族の言語。それがアニメで再現されているが、浅学の自分にはどこまで忠実に再現しているのかわからなかった。おそらく衣装や住居は写真資料などからがんばって再現しているんじゃないかと思う。
 2018年に手塚治虫文化賞マンガ大賞、シリーズ累計1000万部を突破しているというから、原作を読んでいるひとからすると、レビューする資格はないかも。
 内容の詳細を記す気はないし、書こうと思っても書き切れない。ぼくはここで作品中の「死生観」についてだけ書いてみたい。
 本作には3種類の死生観が登場すると思う。それを観ている視聴者の価値観も含めれば4種類というべきか。まず、主人公アシリパの父たちに代表されるアイヌの人たちの死生観。厳しくも豊かな北海道の自然の中で、カムイとともに生きるアイヌ。獲物を狩って食べることは残酷なことではなく、アイヌ=人間もまた自然の一部として存在している。だから、同時にすべての生き物(獲物)に対する敬意が存在している。
 次に土方歳三が代表する幕末維新を生きたひとたちの死生観。明治維新を「革命」と位置づけるかどうかは意見が分かれると思う。国内の内発的な思想があったというよりは、黒船に対するリアクショナルなナショナリズムが爆発した結果ともいえるし、また、むりやり西洋の社会システムを導入するという文明開化がいろんなものを置き去りにしたまま進んだ、とても強引な施策だったことも間違いないと思う。儒教の影響がより強まった江戸時代のあとに明治維新が起こった。幕末の志士たちはそれまで事実上存在しなかった「侍」の姿を体現して戦った。そして、その侍の精神は維新後の日清日露戦争を通して、ゆがんだかたちで大日本帝国の軍部に受け継がれていく。
 そして、もう一人の主人公・杉元や中心的な役割を果たす登場人物のほとんど所属する明治の若者たち。欧米列強に追いつくことを目指し突き進む大日本帝国は北海道(や沖縄)を植民地化して拡大していく。この世代は維新後に生まれ、日清戦争を目の当たりにし、ロシアの南下と対峙し、日露戦争を戦った世代だ。特にスナイパー緒方や鯉登少尉が象徴するように、怖ろしくタフで優秀な人間が多かったのではないだろうか? 彼らはみな旅順を戦っている。軍神・乃木将軍の評価についてここでは触れない。だが、あまりにも死が溢れていたのは間違いないと思う。実は、近代兵器が大量に使用され、徴兵でかり出されたいわゆる「国民国家」の一般国民が大量動員された戦争は日露戦争が初めてだったという説もある。日露戦争は1904年、のちにヨーロッパを地獄にした第一次世界大戦は1914年だ。「Johnny Got His Gun」は第一次世界大戦の地獄を描いている。
 この作品では、ためらいもなく人が死んでいく。サイコパスのように人を殺す、ある意味、現代でもありえる動機で行われる人殺しも一部あるが、ほとんどは「殺さなければ、殺される」という単純な事実をもとに、迷いなく決断される殺人だ。作品中、杉元をはじめ主要登場人物たちの日露戦争を挟んだ過去が描かれる。そこでは封建的なムラ社会と、近代国家として歩む大日本帝国の狭間で懸命に生きる庶民たちの苦しみが描かれる。冷酷なスナイパー緒方ですら、あの時代の矛盾の中で生き延びてきたことが描かれていく。今風にいえば、PTSDを抱えたうえに、時代の矛盾に翻弄されてきたといえると思う。
 はっきりいえるのは、上記の3種の死生観は現代の日本人には理解しづらいモノだということだ。だけど、ぼくには、それこそがこの作品のすごいところだと思う。
 最後に、視聴者が感情移入できるギリギリの死生観を与えられているキャラについて。やはり「不殺の誓い」を立てるアシリパと、それに影響された杉元だろう。この主人公ふたりの存在のおかげで、視聴者はなんとかギリギリ、この作品に感情移入できる。鬼滅の刃の炭治郎が、現代に合わせた(いささか古くさい)ヒューマニズムをもとに行動するのとは対照的だ。
 ぼくは人間社会はまっすぐにとはいえないけど、少しずつ進歩していると信じたい。らせん階段を登るように、世の中は少しずつ良くなっていると思いたい。だから、この作品で描かれる死生観を賞揚する気はない。アイヌの死生観で獲物をとり続けたら、増えすぎた人間が狩りつくしてしまうだろうし、幕末維新の侍たちの姿はかっこいいけど、武士道に殉じて切腹なんて御免被りたい。そして、日露戦争を戦ったものたちの死生観。それは第二次世界大戦を戦った多くの日本人につながるものだと思う。
 自分の祖父二人はどちらも出征した経験を持つ。ふたりとも故人となってしまったが、生前の話を僕は覚えている。二人とも同じことをぼくに伝えてくれた。
 戦争だけは、絶対に二度とやっちゃいかん。
 それだけは覚えている。

 

 

風の御主前(かぜのうしゅまい) 1974年 大城立裕

 大城立裕さんというのは偉大な作家だったんだなあ。歴史的事実を丹念に積み重ねながら、人物像や情景が目に浮かぶような見事な筆さばき。
 本作は沖縄・石垣島に初めて気象測候所をつくり、島の開発につくした岩崎卓爾の生涯を描いた伝記ものの小説だ。
 岩崎卓爾は名前は知っていたし、どこかでその事績も読んでいるはずなんだが、ぜんぜん印象に残っていなかった。明治時代の地方(田舎)にいけば、そこかしこに「初めての~」が作られていただろうし、それに貢献した優秀な官吏も多かったに違いない。というわけで、具体的なイメージをまったく伴わないで見聞きしていたので印象がなかったんだと思う。
 ところがこの作品を通して、岩崎卓爾をとても好きになってしまった。今でも石垣島では偉人として記憶されているのも納得できた。石垣島地方気象台構内には岩崎卓爾の胸像が建っている。
 彼が石垣島に着任したのは1898年、30歳の時。台風の研究への強いモチベーションを持っていたみたいだけど、さすがに着任当初は40年近く、死ぬまで石垣島に居続けることになるとは思っていなかったんじゃないだろうか?
 1913年に、主に子どもたちの教育環境を考えて、妻と子どもたちを仙台に送り返している。1914年の台風では飛んできた石によって、右目を失明している。それでも彼自身は帰らなかった。
 なんとなく、だけど、彼が東北仙台の維新後に没落した士族出身だ、ということは彼の人格形成、価値観の形成にとても大きな要因になっていたかもしれない。本庁から、出世させるから本土に戻ってこいと言われても石垣島にこだわり続けたのは、石垣島への愛はもちろんだけど、本土の官僚の世界に違和感を覚えていたのかもしれない。

 田舎にまれ人として現われる都会人や進歩的知識人というのはいろんな物語でテーマになっているけど、この作品もそういう文脈で読むこともできると思う。しかも事実を基にしている点が面白い。そして、岩崎卓爾からの視点で描かれる場面が多いのも特徴だろう。西洋がもたらした「近代」というものとどう向き合うかは明治の知識人にとってずっと難題だった。夏目漱石うつ病になるぐらい悩んだわけだ。
 そして八重山には本土(ヤマトぅ)からそれはもたらされた。現地のやいまぴとぅからすれば、上から目線で強権的で、地元の伝統をかき乱す迷惑な存在だったにちがいない。言葉だってなかなか通じない中で、彼が歩んだ40年というのは、本当に尊い。そしてまた彼が夢中になって昆虫採集に励んだり、たこあげ大会を主催してみたり、と子どものような好奇心でいろんなことに関わっていく姿が素晴らしく、エピローグで彼の死を描くシーンでは涙ぐんでしまった。
 僕自身、島ないちゃーとして20年を石垣島で過ごしてきたが、残念ながらぼくには島に貢献できるような、岩崎卓爾なみの特別な知識や力はない。なんとも情けない話だが、これからは少しでも彼を見習って些細なことでもいいから、地元に貢献したいと思う。
 話がそれてしまったが、本当にすばらしい作品でした。小説という形式だからこそ深く記憶に刻まれる、歴史上のあまり有名ではない、偉人のお話。「テンブンヤー(天文屋)のウシュマイ」、とても魅力的な人物でした。

 余談だけど、あとがきにNHKでのドラマの話が書かれていて気になって調べてみたら1974年に銀河テレビ小説として放送されていた。動画探したけど、見つからないなぁ。復帰後すぐの作品だが、石垣島でロケも行われたそうなので、当時の映像が見られるとなかなか貴重だが。残念。

素晴らしき哉、人生!It's a Wonderful Life 1946年 アメリカ

 言わずと知れた名作中の名作。たぶん子どもの頃に一度は見ているんだろうけど、明確な記憶なし。この年始に改めてみてみた。

 この作品を好きじゃない、という人とは仲良くなれそうな気がしない(笑)。善良で勤勉な主人公・ジョージと良妻賢母・メアリー。雨の中で二人の結婚を祝う歌を歌う友人や、故郷を捨ててNYで成功するジョージの従兄弟。そして、街を牛耳る悪役・ポッター。登場人物たちはどれもステレオタイプではあり、典型的なキリスト教的価値観が通底していると思う。
 だが、それでも名作だ。弟をかばって左耳の聴力を失うシーンと、薬局のバイト中に店主のガウアーさんに叩かれたあと、抱き合うシーン。この二つのエピソードだけでもジョージの善良さを見事に描いている。そして父の死により、世界周遊の夢も大学進学、建築士の夢もあきらめて家業を継ぐシーン。メアリーとの結婚式と、その後の取り付け騒ぎ。ジョージは一貫して弱い人たちの味方をして、自らのハネムーン資金すら出してしまう。それを全く厭わないメアリー。シンプルなシーンの連続だけど、観客も街の隣人たち同様、どんどんジョージが好きになってしまう。
 そして迎えるクリスマスイブ。大戦でパイロットとして英雄になった弟を迎えるべく機嫌良く朝を迎えたのだが、叔父ビリーが会社の資金を紛失。
 ジョージは酒を浴びるようにのみ、保険金を手に入れるべく、自殺を考える。この後の天使クラレンスによって体験させられる「もし、自分がいなかったら」の世界がこの作品の白眉だろう。
「一人の命は大勢の人生に影響し、一人が欠けると世界は一変する」自分はジョージほど善良ではなくて善行と呼べるほどのことをしてきたかはわからないし、ジョージほど志をもって仕事に取り組んできたかはわからない。だけど、そんな矮小な自分であっても、この世界を織りなす一部分なわけだし、この与えられた生命を、人生を、支えてくれる周りの全ての人たちへの感謝とともにしっかりと生きなきゃなと。
 改めて観て、本当に名作です。
 蛇足だけど、この作品、公開当初は興収的に失敗だったらしい。なぜ当時、ヒットしなかったのか、謎だ。戦後すぐの1946年にはこういう作品は求められていなかったのだろうか? 理由を知っている人、教えてください。

 

 

『フェアウェル』(The Farewell  別告訴她) 2019年アメリカ

  監督は王子逸(英語:Lulu Wang)、主演はオークワフィナ「クレイジーリッチ エイジアン」で印象的なヒロインの友人を演じていた女優・ラッパーさん。
 アメリカで生まれ育った中国系アメリカ人のヒロイン・ビリーが、父方の祖母が末期がんであるとことを知り、中国まで会いに行く。
 実はビリー本人にとっても、物書きとしてやっていくためにどうしてもほしかったグッゲンハイム・フェロー(助成金)に落選して落胆し、ばあちゃんに会いに行きたかったのだ。
 中国では末期がんの本人への告知はあまりしないらしい。
 祖母にとって長男である叔父が告知をしないことを決めるが、その叔父の長男が中国で結婚式をあげる、という名目で家族が祖母に会いに集まってくる。
 叔父は日本で長く仕事をしていて、今から結婚する長男も中国語はたどたどしく、そのフィアンセも日本人。
 一方、中国でずっと暮らし、金儲けにせっせと励む叔母夫婦。ヒロイン・ビリーの両親は中国よりもアメリカのほうがずっと好きなっていて、叔母夫婦と意見がかみ合わない。両親は自分たちを中国系アメリカ人だと自認している。いっぽう叔父も日本に長く暮らしているけれど、自分は中国人だ、と言い切り、ガンについても中国式に本人への告知はしないと。
 ビリーはガンを告知しないのは不誠実じゃないのかと悩みつつ、祖母との残り少ない時間を慈しむ。祖母にガンについて気づかれないように皆が微妙な空気を抱えたままではあるが、無事に従兄弟の結婚式が行われ、みんなで楽しい時間を過ごす。

 日本人のいわゆる「嫌中」意識は近年ずっと高まり続けていて、直近の調査で中国の印象を「良くない」「どちらかと言えばよくない」が90・9%。ぼくは日本の「嫌中」感情のもっとも大きな理由は日本の衰退と、それに反比例するかのような中国の強大化にあると思っている。ずっと自分たちより遅れた国とみなしてきた中国が日本より先にいくこと、強大であることが受け入れがたいのだろう。停滞したままの日本の現状への鬱屈が背景にあると思う。それに加えて習近平が皇帝への道を突き進む近年の拡張路線に不安と怒りを覚えているのも事実だろう。ウイグルや香港での人権抑圧を真摯に受け止めて、権威主義と戦わねば、と思っている日本人はそんなに多くない気がする。
 日本から観た中国が、こんな感じだとすると、僕が興味があるのは海外華人が今の中国へ向ける眼差しだ。欧米などで2世3世として生まれた華人がビジネスチャンスを求め中国へ向かっているケースも数多い。また、中国企業の世界中への進出を自らのチャンスに結びつけているひとも多い。一方で自由な表現を求めるクリエイターたちはどう観ているのか?
 この作品でのビリーの両親ぐらいの世代だと、文化大革命を経験していたりする。中国共産党の恐ろしさ、権威主義の怖さを身にしみて知っている世代だ。そして海外で基本的人権を当たり前のモノだとして育った二世三世。彼らの眼差しとふるまいはこれからの中国と世界に大きな影響を与える気がする。

 純粋に映画として評価するなら、派手なシーンがあるわけじゃないが、ストーリー展開のテンポも良く、同じように「中国人」「中華系」としてくくられる人たちにも、様々な立場と考え方があるということを知られて、いい作品だと思います。

 

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フランクおじさん Uncle Frank 2020 アメリカ

 これは良作。自然豊かな情景を切り取った映像、抑えられているけど豊かな俳優陣の演技、主人公・ベスとアンクルおじさんの間に通い合う優しさ。とても素敵な作品だと思う。
 冒頭のシーンが好きだ。ベスとアンクルおじが二人で話すシーン。田舎の、粗野な家族になじめないベスが唯一心を許せる相手がNYに住む大学教授・アンクルおじさん。このシーンとラストシーンが見事なつながりをみせていて、美しい南部の田舎をそよ風が流れ、みんなの顔から笑顔がこぼれる。ベスの独白、ナレーション部分がとても詩的で、素晴らしい。
 ベスを演じたソフィア・リリスもとてもかわいい。
 ストーリーについては割愛するが、作中で最も魅力的な登場人物はアンクルおじさんのパートナー・ウォーリーだろう。演じたPETER MACDISSI自身、どうやら本当にゲイのようで、ユーモラスな演技で作品の猿回し役だと思うが、アンクルへの深い愛と、ベスに向ける優しい眼差しが素晴らしい。

 ゲイとして生きることは現代でもまだまだ大変だろうなと思う。ましてや、1970年代、保守的なキリスト教社会のアメリカ南部ではさらにつらそうだ。キリスト教を初めとする一神教は、なかなか多様性とかみ合わない部分があるよなぁ。日本においては衆道の文化が連綿とあったわけだが、明治以降の西洋化のなかで厳しく規制されるようになっていったらしい。今でも日本の田舎でゲイであること、はけっこうつらいだろうと思う。家族や親族の理解を得るのは容易ではないし、パートナーを探すのも大変だと思う。ほんと日本の田舎もめちゃくちゃ保守的だからなぁ。

 作中、母親がアンクルにかける言葉が素晴らしい。
「You are my precious gift from God. And nothing ever will change that」
 母の愛は偉大だ。ラストシーン、アンクルだけじゃなく、ベスにとっても故郷を取り戻すことになる。心暖まる素晴らしいラストだと思う。

 

フランクおじさん

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『金子文子と朴烈』原題:박열(朴烈)2017年韓国

 アマゾンプライムに登場したので、なんとなく見たんだがご多分に漏れず「反日的」と話題になっていた作品らしい。原題は「朴烈」で、抗日アナキストが主人公なんだからそりゃそうでしょ。全体としては史実から大きく離れているわけではなさそうだし。それよりも作品としてどうか、のほうが大事なわけだが、、、。
 ぼくは朴烈を、というより金子文子について、以前ちょっと興味があって調べたことがあって、ある程度知っていたので、正直、ストーリー展開が緩慢に感じられてあまり楽しめなかった。
 金子文子について興味をもったのは、やはりあの時代に、女性でアナキストの活動家として死刑判決を受けた、というのはかなり特殊な存在だからだ。とはいえ逮捕の時点で若干二十歳(朴烈もわずか21歳)、事件の大きさに比べ、実際の二人は思想的にも、活動家としての能力も未熟であったはずで、まぁまず冤罪だったろうなと。金子文子は獄中で歌集と自伝を残しているけど、未読だ。
 文子の生い立ちについてこの作品ではほとんど触れられていないのだが、信じられないぐらい悲惨な境遇だったようだ。今でいう完全なネグレクト、育児放棄の親に捨てられ、親戚をたらい回しにされて育ったそうだ。現実のすべて、社会のすべてを否定したくなる心境だったろう。無政府主義天皇制否定もその延長に過ぎないように思う。
 さて、作品に戻ると逮捕されてからラストの裁判までが長い、、、。ヒロインを演じたチェ・ヒソの日本語は、幼い頃に日本に住んだことがあるらしく、とても上手だと思うし、取調官・立松を演じたキム・ジュンハンの日本語は見事だ。
 ただ、それにしても、ね。後半はほとんど判決に向かって進む会話劇になっていて、言葉の問題もあり、とてもテンポが悪い。やはり日本人の役は日本人キャストで演じてほしかった。内務省の官僚の日本語が変、とかやはり違和感がすごい。
 不満点をまとめると
1. まとまったセリフのある日本人の役には日本人キャストを。 こういう作品を日韓合作で撮れるようになるといいんだけどね。日本人スタッフも参加してるけど、足りなかったのでは。
2. 逮捕から裁判までが長すぎるから、2人が出会ってから逮捕されるまで1年余りの同棲生活があったわけだし、そこを作り話でいいから膨らませるべきだったのでは。二人の生い立ちを深い掘りすることもできるし、それによって当時の社会状況をもっとうまく描けたんじゃないか。
3. 歴史に関するファクト云々に突っ込みたくはないのだけど、悪役として当時の内相・水野錬太郎が描かれているが、どの程度資料に基づいているんだろう? 震災時は混乱に乗じた陸軍による社会主義者や労働運動の指導者の殺害事件が実際に起こっているので(大杉栄伊藤野枝)、事実だったとしても驚かないが、舞台演劇のような演技もあって、どうも違和感が残る。

 作品として韓国では評価が高かったようだけど、歴史的、政治的な立場を抜きにしてみると、それほど面白いとは思えなかった。重くシリアスな内容を、ポップにときにユーモラスに描いているのはさすが、と思うけど、物語の推進力が足りないような。
 主人公二人について全く前知識がないほうが楽しめたのかもしれない。