石垣島から所想所説、徒然なるままに

沖縄・石垣島の話題を中心に、石垣島から見えること、思うことを徒然に。好きな映画のレビューや、自分が難儀しているアトピーの話題なんかも。

小説 琉球処分(上) (講談社文庫) 文庫 – 2010/8/12 大城 立裕 (著)

 

 時代を経てもなお、名著!
 自分が沖縄に(石垣島)に来た若い頃に読んだと思うのだけど、思い立って再読。もし読んでいたらこんな名著を忘れていたのが驚きだし、初見だとするとなぜに今まで読んでなかったのかなと思う。読んだことがあると思うんだけどなぁ。
 著者情報にあるように、最初に新聞連載されたのが、なんと1959年。著者若干34歳のときだ。この文庫版のあとがきにもあるよう松田道之の「琉球処分」を読んだ衝撃がそのまま作品に表れていたようだ。
 さらにこの文庫本の解説で佐藤優が紹介しているように、連載当時は沖縄の祖国復帰運動が盛んで、その空気に水を差すと思われたのか、連載打ち切りの憂き目にあっている。ところが、1972年の復帰間近にはにわかに注目集めるようになったという。少し長いが、あとがきから一部抜粋してみよう。
「(連載当時は)首里城明け渡し前夜までの連載で、そのあとの部分は、芥川賞をもらった余慶で(1967年)、講談社から単行本にしてもらうことになったとき、書き足した。
 単行本になり、のちにファラオ企画の単行本になり、ケイブンシャ文庫にもなったが、いずれも初刷りどまりであった。編集者にある程度の関心をもたれながらも、国民にそれほど関心が浸透しなかったということだろう」
 この後、祖国復帰が現実味を帯びる過程で「第二の琉球処分」という見方も生まれてきて、注目を集めるようになっていく。このあとがきは2010年7月に書かれているのだけど、大城 立裕先生という沖縄を代表する大作家がいかに透徹した視点をもっていたかを物語っていると思う。

 この作品だけで「琉球処分」という歴史的事件の全貌を理解したことにはならないとは思う。執筆当時の資料の限界もあっただろうし、どうしても当時の琉球王朝士分階級と大日本帝国の官僚・松田道之とのやりとりが中心になっていて、当時の琉球の庶民がどういう状況だったのか、どんなことを考えていたのかは理解しづらい。小説というかたちをとることで、その中に士分と百姓の間に位置するような登場人物を配することでなんとかそこも描こうとしているけど、十分とはいえないかもしれない。それでも傑作だと思う。オキナワを、あるいはヤマトをことさらに持ち上げることもなく、また断定的に批判するでもなく、それぞれの歴史的背景を持ちながら、大きな時代のうねりの中で起こった歴史的事件としてみごとに描いている。ナイチャーの自分からすると、ちょっとウチナーンチュに厳しすぎるんじゃないか、というぐらい当時の琉球王朝の支配階級を描いている。

 いくらでも書ける素材だけど、特に面白いと思った点をいくつか。
1.琉球王府の役人の「将来の見通しもないままの責任とらずに時間稼ぎと嘆願ばかり」に読んでいるだけでもかなりイライラさせられる。当事者の松田道之からしたら我慢の連続だっただろう。よく耐えて任務を完了したなと感心させられる。
 ところが、振り返ってみると江戸幕府だって、黒船の来航時は時間稼ぎと、アメリカ人からしたら意味不明の形式上の統治組織の論理でぐずぐずと結論を伸ばし続けていた。ペリーに対する当時の幕僚たちと、松田道之たちに対知る琉球王府の役人は、ある意味そっくりだ。
2.琉球国王尚泰の上京を防ぐためにあれやこれやの言い訳と時間稼ぎの連続。首里退去時には従臣たちが涙を流す。これもまた、大日本帝国が第二次大戦でポツダム宣言受諾時の「国体=天皇の維持」にこだわったのと相似形だ。
3.琉球王国には武力がなかった。対して、幕末のヤマトは、江戸幕府にせよ、地方政府である各藩であれ、政治指導者は「武士」だった。維新後、まっしぐらに開国・文明開化にむかった明治政府ではあるけど、幕末の尊皇攘夷運動が欧米の侵略に対する反発力として作用した側面は大きいと思う。薩摩はイギリスと戦争し、長州はイギリス,フランス,アメリカ,オランダの4国連合艦隊に向かっていった。今から考えると考えられない暴挙だけど、それが倒幕につながったわけだし、琉球王朝のなかにそういう軍事力はなかったし、地方にも過剰な?独立心と実力もなかった。そもそも薩摩の侵攻時にもっと激しく抵抗していれば歴史は変わっていたのかもしれない。
4.文明開化を経験したヤマトの役人たちが琉球士分に向けるまなざし、琉球士分が百姓たちに向けるまなざし、あるいは百姓あがりのヤマトの兵隊たちに向けるまなざし。そのすべてに偏見と差別が含まれていると思う。生活環境があまりにも違い、言葉も通じないようななかでは、それは「偏見」とはよべないかもしれない。漢文に通じるなど儒教的教養を身につけた琉球政府の役人たちがヤマトからきた農民上がりの兵隊や警察官をどう見ていたのか。ヤマトぅとウチナーンチュの間の文化的歴史的な溝は(この琉球処分ももちろん大きく影響しているわけだが)、いまだにあると思うし、首里のひとに対するほのかな、微妙な歴史的背景は今も先島のひとたちなどに少しはあるように感じる。
5.ヤマトの「中央」からみれば、沖縄はこの琉球処分の頃から一貫して「重要な軍事的意味」と「植民地」としての産業政策を押しつけられてきたのだと思う。尖閣問題、台湾海峡のリスクを理由として米軍基地はがんとして動かないし、製造業が発達せず、米軍基地や内地からの物資に依存した消費社会として形成され、さとうきびに代表されるいかにもなプランテーション作物。大戦、米軍統治、日本復帰、観光地としての沖縄ブームなどを経験してもなお、その立ち位置は変わっていないのかもしれない。

 最後に琉球処分については、その先の台湾との関係がとても深く、牡丹社事件琉球の帰属問題はもちろん、台湾出兵、先島分割案、日清戦争と台湾統治と続く流れがあり、台湾への沖縄人の移民もとても多かった。自分自身、19世紀後半から20世紀前半の東アジアについてまだまだ知らないことが多すぎるなと痛感している。アニメの「ゴールデンカムイ」は虚構ではあるけど、面白いよね。
 沖縄について知るなら必読の名著だと思います。